部長の褒めて殺して。やっぱ殺すのなしで

氾文オーディオ部部長の個人的なブログです。たまにブログ名を変えます。

イヤトレ雑感

音楽に必要な数々の能力のうち、わたしはとりわけ聴音が人並み以下だという自覚がある。ここで「聴音」といっているのは、メロディがある音階をどのようになぞっているか、ある和音がどういう構成のものなのか、そういったことを聞き分ける能力を指す。

 

気になる歌のメロディを鼻歌で再現する、あるいはカラオケで人様の歌を歌うなんてことは誰もがやったことはあるだろう。聴きとって真似るだけであれば、そんなに難しいわけではないのだ。しかし、じゃあいま歌ったメロディをドレミで歌ってみて、譜面に起こしてみて、と言われると途端にハードルが上がる。というか、普通はできない。

 

これができるようになりたいわけだ。

 

わたしはかれこれ十数年断続的にバンドでギターなりベースなり弾いてきたが、実のところコピーにせよオリジナルにせよ自分が何の音を弾いているのかよくわからないままやってきた。同じくらいのレベルの面子でやっている分にはそれで特に不都合もない。

 

しかし、気になる曲の分析をしたいとか、作曲したいとかなった際、つまり単になぞる以上の聴き方が必要になった際に聴音ができないと話にならないわけだ。

 

それで色々とイヤートレーニングのことを調べていった結果、次に挙げる二冊がなかなか評判がよかったため取り急ぎ入手してみた。

www.atn-inc.jp

Gilson Schachnic著 宮崎隆睦

『リズムと音符につよくなる 楽譜初心者のための やさしいイヤートレーニング

 

www.rittor-music.co.jp

友寄隆哉著

『大人のための音感トレーニング本 「絶対音程感」への第一歩!編』

 

 

どちらも移動ド方式を採用したトレーニング本である。ちなみに「移動ド」とは鳴っている音の音名と階名を分け、階名で音を把握する方法をいう。もう少し具体的に言うと、どんなキーであれ、その調の1番目の音をド、2番目をレ(以下略)と呼んで把握する方法である。

 

前者の中身を少し紹介しよう。トレーニングは次の三段階に分かれる。①付属CDの課題曲を聴く。②聴いた曲を譜面に書く。③移動ドで歌う。これだけである。最初はドレミの三音のみを使った単旋律から始まる。章を経る毎にドレミファの4音、ドレミファソの5音と増えていき、最終的に7音すべてを使った単旋律を聴きとる段階まで進む。

 

「やさしいイヤートレーニング」という書名に偽りなく、さすがのわたしでも3音のみであればほぼ間違いなく聴きとり書き記すことができた。4音になった途端わからなくなったが。だがこういった教則本はなによりも「できた」という手応えがないとやってられないものだ。これならなんとか続けられそうな気がしている。

 

いまはまだ単旋律すらだいぶあやしい段階だが、いずれは和音を即座に把握できるレベルにまで辿り着きたいものである。筆者33歳の挑戦は始まったばかりだ。

 

 

 

伊澤修二ノート

www.shunjusha.co.jp

 

奥中康人『国歌と音楽 伊澤修二がめざした日本近代』 春秋社 2008

 

 これは、明治期に官僚として音楽教育の分野で活躍し、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部の前身)の初代校長を勤め、最終的に貴族院議員にまでなった伊澤修二という人物を中心に、日本の近代化と音楽教育がどのような関係にあったのかを綴った、評伝と歴史書の合いの子のような書物である。音楽書を読むブログの実質一発目がコレかよ、と思わないこともないが、まあ面白いのでわたし的には断然アリである。

 カラオケでもバンドでもいいし、なにかの曲を聴いて踊り狂うでもいい。その土台にあるビートに合わせてリズムに乗れる体というものが、こと日本においてはもっぱら規律正しく行進できる近代的な軍人をつくる目的で輸入された代物であると言われたら、果たしてどう思われるだろうか。本書の第一章「鼓手としての伊澤修二」によると、武士もいれば農民もいる、出身地が違えば言葉も通じない人々をまとめあげ軍隊に仕立てるに当たり、文字通り足並みを揃えるのに一役も二役も買ったのが、御雇外国人の音楽教師が指導した西洋式の「ドラム」だったのだという。

 こんにち音楽といえば西洋由来の芸術あるいは娯楽の一分野をさすと大方の人は考えるだろう。しかし伊澤修二を初めとする日本における西洋音楽第一世代にとって、それはどちらかというと体育や道徳と組み合わせ軍人たり得る人材を育成するための教育の具であり、かつまた彼らがめざした軍人の均質性とは日本国民の近代化の基礎となるべきものだった。

 思い越せばわたしが小学生の頃はまだ運動会の練習という建前で、教師の音頭に合わせて行進や組み体操などさせられたものだ。芸術・娯楽としての音楽という一般通念がひろく行き渡る裏で、百数十年前とほとんど変わらない形で音楽を使った教化が行われている。わたしたちを近代人にしようとしている。我が身で経験していながらそのことに無自覚であったことに本書を読んで気付かされた。

 本書を読んだ夜、わたしは独り布団にくるまれながらうなったものだ。果たして、伊澤修二(に端を発する音楽公教育全般)を恨むべきか、それとも感謝すべきか。恨むというと少し語弊があるかもしれない。もう少しざっくばらんに言えば「お、音楽を戦争の道具に使いやがってコノヤロウ」といった感じだ。だが、このような価値判断がきわめて現代的な音楽=芸術・娯楽観一辺倒であることは一目瞭然である。本書の著者奥中氏も先行文献を批判的に読解するうえで、明治期の教育による軍人≒近代人育成のための手段として音楽を取り扱うその姿勢を現代的な審美観でもって断罪するのは筋違いだと何度も諫めている通りだ。

 実際のところ、一切の初等音楽教育を受けずいま現在わたしが愛好する音楽を聴いたとして、存分に堪能できるとは到底思えない。たとえ出自がどうであろうと、そして如何に不快なものであろうと、音楽公教育によって現在のわたしが形成されたことは否定しがたくあり、一概に憤ってばかりいるわけにもいかないのだ。現状では恨み七・感謝三くらいのところでバランスをとってなんとか気を紛らせている。

 話を一度伊澤修二その人に戻すが、この方の来歴もなかなかどうして面白い。当時の官製留学組(スーパーエリート)のひとりとして米国へ渡り音楽以外にも食指を伸ばし様々勉強されたようだが、聾唖者への言語教育法を学ぶ一環としてなんとグラハム・ベル(本書では「グレアム・ベル」表記)の知遇を得ていたというのだ。電話の発明者として名高いベル氏だが、オーディオ的にはかのウェスタン・エレクトロニックの関係者としても知られている。いやはや、思わぬところからオーディオ部っぽい話に繋がった。

 最後に著者奥中氏について。わたしはこの方の著書を読むのは初めてだったのだが、情報の収集と取捨選択と配置の妙技が冴え渡っており大変感銘を受けた。端的にいって、非常にうまいのである。学生諸氏、とりわけ資料に当たらないと話にならないような類の研究を志されている方は、内容に関心がなくとも目を通して損はないと思う。

 

音楽書を読む

ふと、「音楽書を読もう」と思ったのだ。

わたしは音楽を聴くのはもちろんのこと、演奏するのも曲をつくるのも好きだが、読むことはあまりしてこなかった。いわゆる教則本や理論書の類は必要に応じて目を通すことはあったものの、それ以外となるともうさっぱりである。

とりあえず地元の図書館の検索ツールで調べてみたところ、日本十進分類法の760番台「音楽」に該当する書物が11,000件近くヒットした。このすべてに目を通すのは骨が折れるが、まぁあまり気負わず手当たり次第読んでみることにした次第であり、せっかくならログを残そうということでこのブログを始めてみたのだった。

実用のため教則本・理論書も読むが、音楽家の伝記的なものや音楽学の固いテクスト、歴史書、フィールドワークにインタビュー集、あるいはエッセイとしか呼びようのない至極個人的な手記まで、分け隔てなく。もちろん現代の音楽を語るうえで避けては通れないデジタル領域や流通、経済にも手を伸ばし、場合によっては数学や建築をも視野におさめる日が来るだろう。音楽を足掛かりにして、わたしは万学に通ずるのだ。

 

などと始める前は考えていたわけだが。

いきなり気負っているわけだが。

 

大丈夫か、続けられるのか、わたしよ。