部長の褒めて殺して。やっぱ殺すのなしで

氾文オーディオ部部長の個人的なブログです。たまにブログ名を変えます。

徒然和声

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『ハーモニー探究の歴史 思想としての和声理論』西田紘子、安川智子、大愛崇晴、関本菜穂子、日比美和子 音楽之友社

 

「和声」と聞くだけで震え上がる理論音痴の部長です。こんにちは。

名は体を表すの如く、本書の内容はほとんどタイトルの通り。ピュタゴラス学派から始まり20世紀後半までにあらわれた欧米の主要な和声理論を、理論それ自体というよりそれが誕生した時代背景とその波及効果に焦点を当てて紹介されており、あまり理論になじみがない方でも新書風の歴史書として読めるつくりになっています。

 

こんにち日本語で「和声」といえば、作曲家(と一部の理屈っぽい演奏家)向けの作曲メソッドの一部と解されるのが一般的ではないでしょうか。かの「芸大和声」をはじめとして、流派によって扱いは異なるもののある調性のなかに現れる和音をトニック(T)・サブドミナント(S)・ドミナント(D)に分類してどうのこうの…といういわゆる「機能和声」というヤツです。これはある和音Aと別の和音Bとの並べ方によって得られる効果を体系化したもので、とても実用的実際的な考え方でしょう。

本書は作曲メソッド本ではなく歴史書です。とはどういうことかというと、ピュタゴラス学派の「協和」とは単純明快な数比例によって表すことが可能な音程関係であるというお題目から始まり、数学、物理学、芸術等々をゆるやかに参照しながら時代ごとの音楽理解の変遷が語られるのです。「音楽理解」というところがミソで、本書に紹介される理論家の大半は当然といえば当然の如く作曲家なり音楽教師なりの実際に音楽制作の現場で頭を悩ませてきた方々なのですが、彼らがモノした理論は一概に作曲メソッドと言い切れないところがあります。そもそもピュタゴラス学派からして美しい数比例ですから、現実に鳴っている和音を足掛かりにしながらも極めて抽象的な世界におもむこうとしているのがわかります。ざっくばらんにいえば、ピュタゴラス学派の理論では作曲はできません。そして読み進めるにつれ、音楽制作現場で重宝される「機能和声」というものが「和声理論」のひとつにすぎないことがよくわかります。名前は聞いたことあるけどなにをやっているのか今ひとつよくわからないでお馴染み「シェンカー分析」などが典型ですが、いかにして音楽をつくるかという観点がそもそもない理論が理論として成り立つ不思議を味わえます。ここらへんはよく言われる学者とエンジニアの違いみたいなものでしょうか。無論、理解の方に全振りして生まれた理論を学んだ後代の人間が新たに音楽をつくっていき、そうして現れた音楽を元に新たな理論が組み立てられ…とフィードバックループが成り立つわけで、簡単に作曲か理解かと切り分けられるものでもありませんが。

 

読んでいて面白かったのは、理論家の方々のよく言えば思い入れ悪く言えば思い込みが各々の理論に色濃く反映されているところです。例えば「機能和声」の大家として知られるフーゴー・リーマンさんは物理学的知見を大いに取り入れ自然倍音列の構造を自身の理論の基礎に据えるなどとても理屈っぽい方にも関わらず、リーマン以外他の誰にも聴こえない「下方倍音列」なるものに大いに拘泥し周囲から叩かれまくった挙げ句、次の言葉を残したと伝えられます。

 

いずれにせよ、世界中のあらゆる権威が現れて「何も聴こえない」といったとしても、それでも私はこう言わねばならない。「私には何かが聴こえた。しかも、はっきりとした何かが」と。(同書p.99) 

 

う~ん、苦し紛れとは言えかっこいいですね。