部長の褒めて殺して。やっぱ殺すのなしで

氾文オーディオ部部長の個人的なブログです。たまにブログ名を変えます。

語っていいとも

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岡田暁生著『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』中公新書 2009

 

これはよい本です。音楽に言葉を失った経験のある方なら誰であろうと読むに値する名著です。吉田秀和賞もうなずける。

 

本書は、まぁ書名のまんまですが、音楽の聴き方と言葉の関係について書かれた本です。ただ聴いて満足して終了、で終わらせないための知恵がつまった本です。頭からお尻の参考文献まで余すところなく面白いですが、個人的には第二章「音楽を語る言葉を探す――神学修辞から「わざ言語」へ」がよかったです。本章のテーマは「音楽の語り方」です。音楽について言葉を費やすのは、やったあるいはやろうとしたことのある方ならおわかりの通り、非常に精神的な抵抗感をともなう作業です。畏れおおくも音楽様に向かって人の分際で何をか言わんや、というヤツですね。著者の岡田氏によるとこのような沈黙を強いる音楽の神格化はロマン派以降、つまりごくごく最近の現象だそうです。

 

音楽が表現するのは宗教泣き時代の一種の宗教空間であり、そこでは聖なる「鳴り響く沈黙」が支配しなければならない。ニーチェの言うところの「神が死んだ」十九世紀にあって、音楽がかつてのミサの代理を果たし始めたのだ。「汝みだりに神の名を口にするべからず」――音楽を言葉にすることへの禁忌の意識のルーツは、このあたりにあったものと思われる。(p.40)

 

ここに「音楽批評」の成立と「聴衆の拡大」が絡んできて俄然話がややこしくかつ面白くなってきます。ロマン派の人々は音楽を神の如く崇めながらそれについて詩的な言葉を多く残しました。語りたいのに語れないがゆえのジレンマです。そしてその言葉は同時平行的に、産業革命によって生まれた新興ブルジョア層、金はあるけど趣味を解さない新たな聴衆に対する「モノの善し悪しの判断基準」の提示へと繋がっていきます。それ以前の聴衆は貴族たちが中心でしたので、サロンで演奏を聴くとともに家出は自分たちでも演奏をするような人たちでした。しかし新たな聴衆は専ら聴くのみで、自分たちでは演奏をしません。経験も何もあったものではないためまったく価値判断ができないのです。音楽批評は今風に言えば「有識者によるお墨付き」のような形で新たな聴衆に指針を示す役割を果たします。そこに拝金ジャーナリズムが絡み、「名声」や「評価」が独り歩きする状況が生まれます。なかなか地獄ですね。岡田氏はこうした状況を以下のようにまとめます。

 

このように見てくると、音楽を宗教なき時代を救済する新たな宗教にしようとする勢力と、台頭してきた市民階級の聴衆を相手に音楽でもって商売をしようとする勢力との利害関係がぴったり一致したところに生まれたのが、「音楽は言葉ではない」というレトリックだったことが分かる。ドイツ・ロマン派によって音楽が一種の宗教体験にまで高められていくとともに、音楽における「沈黙」がどんどん聖化されていく。批評もまた、言葉の無力を雄弁に言い立てるというレトリックでもって、黙する聴衆の形成に加担する。しかも世は分業の時代、音楽行為が「すること(作曲家/演奏家)」と「享受すること(聴衆)」と「語ること(批評家)」とに、どんどん分化していった。そして十九世紀に生まれた音楽産業にとっては、聴衆があまり自己主張せず、黙っていてくれるほど好都合なことはなかった。「音楽は語れない…」のレトリックには、多分に十九世紀イデオロギー的な側面があったわけである。第一章でも示唆したように、言葉を超越した音楽体験は存在する。しかしながら音楽の中に、ことさらに「語ることの出来ない感動」を求めるとき、ひょっとすると私たちは、前々世紀の思想にいまだに呪縛されているのかもしれないのである。(p.56)

 

ものすごいバッサリ切られました。とても身につまされる話です。わたしはこのあたりを読んでいたとき、なんだか爽快感を覚えましたね。一発で氏のファンになってしまいました。もちろん警鐘を鳴らすだけでなく、ここから氏は知識を総動員して音楽体験に言葉を取り戻すための方策なり指針なりを伝授されます。ここから先は実際に読んでみてのお楽しみ。

 

いやしかし、引用文を読むだけでも明らかですが、岡田氏の言葉は平明で流れてます。この方もたいがい大学人(本書刊行時点で京大の先生)なわけですが、前回の伊藤氏とは全然語り口が違いますね。わたくし的には岡田氏の話法に親近感を覚える次第です。実はもう何冊か氏の本が枕頭に積んであるので、折を見て他の本も取り上げたいと思います。