部長の褒めて殺して。やっぱ殺すのなしで

氾文オーディオ部部長の個人的なブログです。たまにブログ名を変えます。

珍本? いやいや極めて真っ当ななにかです。

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ジョン・コルベット著、工藤遥訳『フリー・インプロヴィゼーション聴取の手引き』カンパニー社

 

人を食ったお名前の出版社から世に放たれた、ストレートすぎて逆に不安を煽るタイトル。いわゆる教則本ですら今日日「手引き」なんてつけないぞ。大丈夫か?

 

という感じで九割方怖いもの見たさから手に取ったこの本、あにはからんやタイトルに全く偽りのない正真正銘の「フリー・インプロビゼーション」の「聴取」の「手引き」書であったものだから大変驚きました。

 

フリー・インプロビゼーション(あるいはフリー・ジャズ)なる音楽ジャンルにわたしはこれっぽっちも興味がありません。いつの間にか始まっていつとも知れず終わっている、音楽の三要素といわれるリズム・メロディ・ハーモニーを極力排した方向に進展する、(ほぼ)完全即興音楽。ジャズの技法に「アウトサイド」というやつがあります。瞬間的にわざと音を外したフレーズをかます技です。これはむしろ調性が強固に土台としてあるからこそ外し甲斐が生じるわけですが、フリー・インプロが目指すフリーは調性それ自体からの「フリー」です。こう書くと20世紀前半の前衛音楽のなかで生まれた12音音階を彷彿とさせますが、フリー・インプロは12音音階作曲家が保持した「コンポーズ」の外を志向します。さらに、ジャズのフォーマットで演奏されることが多いにもかかわらず、フリー・インプロはビートに乗りません。というか、4/4なり3/4なりの再帰的なリズムの定型を忌避します。

 

百聞は一聴にしかず。とりあえず聴いてみましょう。

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同書でも言及されるアルバート・アイラーのアルバムですが、冒頭一分くらいのサックスを聴いて「あれ? これはメロディじゃね?」と肩透かしを食らった気になったと思った直後からもうよくわからなくなっていきます。そう、よくわからんのです。どこにどう意を傾けて聴けばよいのかさっぱりわからんのです。一聴して「カッコイイ!」と思えた方はどうぞ存分に沼にはまっていくとよいです。同書の参考文献および参考音源はきっと役に立つでしょう。しかしこれはわたしのような「さっぱりわからん」人が「さっぱりわからん、けどもう少し付き合ってやってもいいかな」と思えるようになるのを目指して書かれた本です。

 

同書は基礎編・応用編にわけてこの「わからなさ」に対して、徹底して聴く側の立場から分け入っていきます。狭くかつ息のながいジャンルの場合、えてしてやる側聴く側両者が相伴って新参者お断りのクローズドサークルをつくりがちですが、筆者のスタンスはとにかく優しい。「寝ちゃってもいいよ。そんなときもあるさ」みたいな。それだけでなんか救われます。ある章では一瞬の発音に全神経を研ぎすますよう教え、また別の章では俯瞰的にギグ全体を思い描くよう誘導する。とかくわかりにくい音楽と向き合うときの意識のピントの合わせ方を親切に、あせらず、自らの体験談を交えながら語ります。

 

この本なにがすごいって、ものすごく尖ったジャンルの話をしているにもかかわらず、その聴き方耳の研ぎすまし方の方法論が極めて普遍的なところです。それを物語るかのように応用編で筆者はこんなことを述べます。曰く、フリー・インプロの曲を普段耳にするコンポーズされた曲であるかのように聴き、コンポーズされた楽曲をあたかもフリー・インプロを聴くように聴いてごらんよ、もうその聴き方は伝授したはずさ、と(いま手許に当該書籍がなくうろ覚えですが)。この発想はすごい。一般リスナー以上に、ジャンル問わずなんらかの楽器演奏をするすべての演奏家は今日からこれを実践すべきでしょう。

 

いかに普遍的なことを語っていようとも本自体がニッチな代物であることはいかんともしがたく、ほっとけばすぐ絶版プレミア化してしまうに違いありません。1600円、みなさまとっとと買いましょう。